| 森ノ宮遺跡 | 玉造稲荷神社 | 玉造黒門越瓜石碑 |
| 約5000年前まで遡り、「大阪人1号」と呼ばれる大阪最古の人骨が出土した。また、貝塚の深い層からはマガキの貝殻や海産魚、浅い層からはセタシジミの貝殻や淡水魚の化石が発掘された。これは JR環状線以東の河内の海が次第に淡水化し、陸地へと変遷していく過程を示している。上町台地の北東端にあたるこの遺跡は早くから人々が住み、玉作岡での狩猟や自然採集、水辺での漁撈生活の様子を窺える貴重な遺跡である。 | 垂任天皇18年(紀元前12年)の秋に創祀された古社。聖徳太子が物部守屋と争われた際に戦勝祈願をされたと伝えられ、豊臣・徳川時代には大坂城の鎮守神として崇められた。同神社は大坂城三の丸に位置し、豊臣秀頼公奉納の石鳥居が現在でも保存されている。江戸時代にはお蔭参りの旅客らが旅の道中安全を祈願し、稲荷社十五社巡では大坂の御本社として、また大坂三十三所観音巡りでは十番札所として玉造稲荷の名が記されている。 |
玉造稲荷神社の瓜畑に平成15年7月・なにわの伝統野菜・玉造黒門越瓜として復活したことを記念し(社)大阪外食産業協会により奉納された。江戸時代中頃、この辺りは武家屋敷の畑地化により玉造黒門越(白)瓜の栽培が盛んに行われ、現在瓜畑で復活栽培されている玉造黒門越瓜は、毎年7月15日に玉造稲荷神社の玉造黒門越瓜食味祭で調理し、参加者に振舞われている。 |
| 難波・玉造資料館 | 黒門跡 | 分社・東雲稲荷神社 |
| 玉造の地名発祥と伝えられ『日本書紀』に記された難波・玉作部伝承を今日に伝えるため昭和61年に建設された切り妻造家形埴輪を形取った資料館。古墳時代の曲(勾)玉、丸玉と管玉で作られた首飾り、玉の原石、曲玉作りの製作工程などが展示されている。常時開館していないので見学の際は1週間前迄に玉造稲荷神社々務所へ連絡のこと。 |
大坂城の玉造門(平野口門)が黒塗りであったことからこの門を黒門とも呼んだ。黒門は玉造平野口町(現在の大阪市中央区玉造1丁目)にあり、豊臣期に惣構門として築かれたが、徳川の時代にこの門は一心寺へと移されたと伝えられる。1989年には(財)大阪市文化財協会により豊臣期・黒門の遺構が発掘された。また、1700年代にこの門付近で良質の越(白)瓜が採れたことから玉造黒門越(白)瓜と名付けられ黒門(白瓜)市場も建てられ、「お蔭参り」の旅客でたいへん賑わった。 | 現在、東雲稲荷神社の地は江戸時代に玉造を代表する町人である松屋甚四郎、その手代源助が「浪花講」を設立した場所にあたる。甚四郎は唐弓弦師として全国を行商した経験から、当時の旅は安全性が乏しく、旅人に安全で信頼のおける旅を提供しようとこの組織を設立した。この「浪花講」は、現在の協定旅館・旅行斡旋業の祖とされ全国へと広がった。全国各地の旅籠などの軒先には「大坂・浪花講」の看板が掲げられ、旅人らはそれを目印に安心な宿をとる事が出来た。 |
| 清水谷屋敷跡/寺山屋敷跡 | 真田の抜穴跡 | |
| <清水谷屋敷> この地は豊臣期に惣構の南堀(空堀)として整備され、その名の通り良水が湧いたことから豊臣秀吉が御茶の水として利用した。秀吉はこの地に茶亭、豊臣家下屋敷も建設し、徳川期には城代下屋敷として利用された。この清水谷屋敷にはその由緒である清水と思われる多くの井戸があり、同屋敷の隣接地には、御蔵方小揚屋敷や清水谷風呂もあった。また、この地に玉造稲荷のご分霊を祀った稲荷社が多いのは当時の人々が大坂城の鎮守神として深く崇敬していたからである。 <寺山屋敷> 清水谷屋敷同様に城代下屋敷として整備され、豊臣秀吉の嫡男・秀頼公の胞衣塚が祀られていた。 |
慶長19年(1614)大坂冬の陣に際し、豊臣秀頼の招きにより真田幸村が城入りした。幸村が徳川勢を迎え撃つため大坂城の惣構よりも更に外側の宰相山に砦(真田出丸)を築いたことからこの山を真田山とも呼んだ。この地に大坂城を抜け出すために掘られたといわれる「真田の抜穴」があるが、有識者による@徳川家が難攻不落の大坂城の惣構内へトンネルを掘り進めた坑道説A当時この辺りが特にキツネが多く生息していたことからキツネの巣穴説 などの諸説があり、その実体は明らかではない。 | |
| 武家屋敷跡 | 二軒茶屋碑 | 猫間川跡 |
| 豊臣時代に五大老の前田利家や同じく五大老の宇喜多秀家、千利休をはじめ島津家、鍋島家などが屋敷を構えていた。前田利家はこの玉造屋敷に秀吉を招き大宴会を催し、その生涯をこの屋敷で閉じた。また、この付近は、細川越中守忠興(越中町)、浅野紀伊守幸長(紀伊国町)、増田長盛仁右衛門(仁右衛門町)、小出伊勢守吉親(元伊勢町)など武家にまつわる町名が多いのはそれゆえである。 | この地は、玉造の最東端に位置し玉造の東の玄関口としての役割を担った。江戸時代、道を挟み二軒の茶店「つるや」・「庄屋(後のますや)」があったことから二軒茶屋と呼ばれた。大坂三郷の最東地でもあり、「お蔭参り」へ旅立つ人やそれを見送る人々、また河内や奈良の商人達でたいへん賑わった。 | 南から北へ流れていた川で、その名の由来は「もとは寝駒川」「寿永時代の頃、猫間家の所領」などの諸説が残る。豊臣秀吉の大坂城築城に際し、猫間川は一部改修されたが自然の東惣構堀の役を担った。天保9年には玉造富裕町人である佐々木春夫が資金提供した御救川浚で川は拡幅され、その際植えられた萩、桜や楓が素晴らしく多くの見物客が訪れた。大正末期には埋め立てられ現存しないが、この猫間川以西が玉造として多くの文献に記されている。 |
| 越中井 | 難波宮跡 | 杉山跡 |
| 細川越中守忠興と細川ガラシャの屋敷台所の井戸とされる。関ヶ原の戦いで夫である忠興が徳川方についた事から石田三成は、忠興の戦意を失わせるためガラシャを人質として大坂城内へ入城させようとしたが、ガラシャはこれを拒みこの屋敷にて自害した。現在では「越中井」として地域住民により保存されている。 | 645年に中大兄皇子や藤原鎌足等の活躍により長年権力を握っていた蘇我氏が滅び、その後の大化年号の建元、飛鳥から難波への遷都、改新の詔の発布へと続く「大化改新」がこの地で行われた。また、長岡京遷都までの約150年間この地は日本の皇都、副都として日本古代史上大きな役割を果たした。 | 江戸時代大坂城の南側に杉山と呼ばれた小高い丘があり、二月の初午では稲荷詣で帰りの遊興客でたいへん賑い、紙鳶揚げの恰好の場ともなった。当時の様子は「摂津名所図会」や「浪華の賑ひ」などで見る事が出来る。この杉山は、明治初期の大阪砲兵工廠建設の際に削り取られ跡形も無くなった。 |
| 玉造同心屋敷跡 | 日の出通り商店街 | 大阪歴史博物館 |
| 元和年間に定番(城番)の制が定まり、大坂城の京橋口定番と玉造口定番にはそれぞれ与力・同心がおかれ城の警備に当った。一度はこの定番制が廃止されたが慶安元年(1648)に復活し、この地は玉造口与力・同心の邸宅地として公収された。この地(伏見伊勢町ほか七町)に住んでいた人々は現在の大阪市西区堀江に代替地を与えられ、新玉造八町を造成した。 | 明治28年(1895)に玉造に大阪鉄道城東線(現在のJR環状線)玉造駅が開業し、同45年(1912)には市電・玉造線も開業した。当時、玉造は砲兵工廠や被服廠から近くそこで働く工員達の居留地化が進み、明治〜大正にかけて早くから近代化が促進された。駅前に日の出通り商店街も形成され、秋田實やエンタツ・アチャコと縁のある寄席・三光館の他、玉造座、朝日座、ヤマト館など盛り場としてたいへん賑わい、今日に至っている。 | 大阪歴史博物館が位置する上町台地とその周辺は、古代の難波宮、中世の大坂本願寺、近世の大坂城と城下町、そして近代・現代には大阪市の中心部として発展してきた。こうした背景を踏まえ、「都市おおさか」の歴史にスポットをあて、大阪の歴史や文化を紹介する博物館として平成13年(2001)に開館された。 |
| 玉造の名物名産品(江戸時代編) | ||
| 玉造黒門越(白)瓜 | どじょう汁 | 荒わかめ |
| 天下一あまざけ | 青刻昆布 | 唐弓弦 |
| 畳針 | ||
